今回のIPCによるロシア・ベラルーシ選手のパラリンピック出場除外という出来事について、今朝の3月4日中日新聞に私のコメントが掲載されました。
内容は概ね話したことが掲載されていますが、記事の中には「憤る」という表現がありましたが、そこまで感情的になっていません(笑)。ここで言いたいのは、電話でお話した記者さんはちゃんと話を聞いてくれましたし、記者さんが悪いということではなく、私が感情的に発した言葉ではなく、現時点で感じたことを冷静に発信したいということです。というわけで、その記事で考えや気持ちが十分伝えられているかわからないので、個人の投稿で補足させていただきたいと思った次第です。
少し長いですが、お付き合いいただけると幸いです。
今回のIPCの判断の理由として対戦拒否を表明する声が多く寄せられたとあります。結果的に大会運営を考えるとやむをえないのかなと現実的には思います。
今回のロシアの国としての行為は多様性を認めない批判に価するものかもしれませんし、私も思うところはありますが、ひとまず、その是非は、ここでは置いておきます。
それに対して、各国、あるいはそれぞれのスポーツ団体がそれぞれの立場で批判をしたり、懸念を表明するのも自由かなと思います。
でも、スポーツの世界ならそこまでかなと思うわけです。
今回のロシアの行為にロシア・ベラルーシの選手は直接関与していません。
不祥事をおこした会社の社員家族がお店で買い物をしようとした時、その会社の社員の家族ということで入店を拒否されるのと同じような違和感を感じてしまいます。
経済制裁とことなり、スポーツ界から制裁としてロシア選手を締め出すことでロシアの政治家が考えを改めたりするとは思えませんね。
そうなるとロシア・ベラルーシ選手の出場禁止は彼らの悲嘆しか残らないような気がします。
繰り返しになりますが、その選手の悲嘆や絶望が残念ながら政治家の気持ちを動かすとは思えません。
そう考えると、スポーツ界のこのような排除の動きは弱いところにいきどおりのはけ口が向いてしまっているだけのように感じてしまいますが、それは私の思い込みでしょうか?
以上のことから、
スポーツ団体・組織も遺憾であることや憤りを表明してもよいし、すべきともおもいますし、その権利もあるかなと思います。
選手個人として対戦拒否するのもその選手個人の自由かなと思います。
ロシア・ベラルーシの選手にしても、個人の自由で出場しないのは権利だと思います。
でも、彼らにそのチャンスすら与えられないのはどうなのかなと思うわけです。
スポーツにおいて、ドーピングや障害区分の不正は厳正・厳格に処分されるべきです。
しかし、今回はそことは無関係です。
そのような中、排除された選手は無念、恨み、憤り、どんな感情を抱くのかわかりませんし、その感情が自国に向かうのか、他国に向かうのか、どこにむかうのかはわかりませんが、いずれにせよ、それがよい方向に向くとは思えません。
むしろ、政治や宗教、思想と切り離したスポーツだからこそ、参加を希望する選手に門戸を開いてはと思います。
それがスポーツだからこそできること、あるいはスポーツの力だと考えます。
きれいごとかもしれませんが、これが現時点で私の考えです。
この投稿を読んで不快な気持ちになったひともいるかもしれませんが、今の正直な気持ちです。
是非、多くの方に読んでいただきたいと思います。
そして、読んでいただいた方々の思いや考えを聞かせていただき、参考にさせていただければ幸いです。
いつもと違い真面目に書きました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。